新井竹芸 創業80年のあゆみ

大正9年 2月7日 先代「新井馬太郎」日高市高麗本郷746で生まれる。
昭和7年 大字栗坪 石井良市宅に竹細工の修行に入る。
昭和10年 3年間の修行を終え、自宅にて新井竹工所を開業する。当時20歳。主に小さなざる、かご等を製造し、問屋に出していた。
昭和17年 先代「新井馬太郎」結婚。このころ太平洋戦争が始まる。太平洋のポナベ島に出戦。
昭和19年 長男「正一」誕生。
昭和20年 父(馬太郎)が終戦になり帰国。戦前の仕事に従事する。このころは、ざる、かごが生活必需品であったので、竹細工が良い仕事だった。
昭和25年 一番弟子を取る。後10年間で二番弟子、三番弟子を取る。
昭和38年 2人の弟子が住み込みで働いていたところへ、長男「正一」が学校終了後、四番弟子として修行に入った。
昭和40年 2人の弟子が独立。しかし時代も移り変わって、竹職の技術を活かせず転業。
昭和41年 【私(正一)が父(馬太郎)に「俺も外の仕事をする」といったが、父は何としてでもこの仕事に私が就く願望が強く、竹に関するあらゆる仕事を取ってき始めた。】
昭和43年 【野菜かご、小鳥かご、竹トンボなどを作り始め、私は青竹涼台の修行を始めた。このころ、ダンボール、ビニール製品が出回り、ざる、かごが売れなくなっていった。竹を使って何かないか・・・。父と相談し、研究しつつ「開運くまで」の製造に取り組み始める。】
昭和45年 「新井竹芸」と改名する。
「研究-製造-販売」をモットーに、一から十まで自分の手で製造し、販売することをこころがけることにしよう、と父と相談。このころから開運くまでに本腰を入れる。「佐野厄除け大師」「高幡不動尊」「高麗神社」等のお得意先を取る。一年で消耗していく製品なのでビジネスにつながり、いまでも主力商品となっている。
昭和51年 私(正一)が「さく子」と結婚。結婚と同時に、父より「これからは二人でこの事業をやっていけ」と言われ商売の通帳を渡された。嬉しいような、また不安のような気持になり、まあいいか、父がいつも一緒にいるということで引き受けた。これから二人で父の事業を伝承し、新井竹芸の「研究-製造-販売」を頭に置き、竹に関することは、出来る、出来る、必ずできる。やる気があれば必ずできる、をモットーに二人で決意をした年だった。
昭和52年 このころ「幣串」を始める。家の前に店舗を出す。製品が売れ出す。年の暮れになると、神主さんが幣束をきる、その幣束をさす串を「幣串」という。これも毎年取り換えるということでビジネスにつながり、今も製造している。入間地方の神主さんに頼まれる。
昭和53年 竹の炭を焼く窯を作る。竹を炭にすることは今の世の中にないということで、父と一緒に試行錯誤しながら窯をつくる。いざ窯を作って焼いてみると、全部灰になってしまった。こんなことが2~3年続いた。
昭和55年 やっと竹炭が焼けるようになり、「竹炭」として売り出す。
昭和58年 父は長年痛風という病気を持ち、医師から「新井さんの体はアルカリ分が不足しているのでアルカリ分を体に入れなくてはだめ」と言われていた。そこで父は、竹は全部アルカリ成分であるということを知っていたので、「そうだ、竹炭を粉にして飲めばいい」と思い、半年くらい飲んで医師の診察を受けたら、先生に大変喜ばれて「新井さん、それは大発見だよ」と言われ、その後痛風はすっかり治ってしまった。
昭和60年 全国版健康雑誌「壮快」に掲載される。その後も各方面から大反響をいただき、注文をいただくようになった。薬事法の関係で、大々的な販売には至らなかったが、その後30年経ってもいまだにぜひ分けてほしいという方が絶えない。30年間、副作用などは1件もない。
昭和61年 青竹涼台が、埼玉県優良産品に選ばれる。このころから「竹酢液」を売り出す。これは竹炭を焼くときに煙突から出る副産物で、主に農産物の消毒、入浴剤などに利用でき、いまだにロングセラー商品として売れている。
昭和63年 父、心筋梗塞になる。慢性の心筋梗塞で、心臓のバイパス手術を受け成功。
平成1年 母が脳梗塞で倒れ、3年間入退院を繰り返す。
平成4年 母が死亡。72歳だった。平成1年から4年は大変な年だったが、この間、長年の計画であった家を新築した。
平成5年 家の裏手に少し広い作業場を新築。
平成6年 竹割り機をくまで用に購入。
~昭和52年ごろから63年ごろまで、バブルの絶頂期で物が売れる時代でした。しかし、平成に入りだんだん景気が悪くなり、品物が売れなくなっていった。しかしくまでのほうは毎年同じ本数で注文が来ていました。佐野厄除け大師では6万本、高幡不動尊からは大小合わせて2万本ほど。このころ従業員と家族合せて5名、内職4名で新井竹芸を支えていました~
平成9年 店舗の隣に、倉庫および車庫を新築。この倉庫は窓がないので、そこへ除湿器を入れておくと、くまでや製品がカビずに保存できるようになった。
平成10年 家の西側に事務所および休憩所を建てる。青竹涼台は、昭和45年から平成10年ごろまは年間80~100台ぐらい製造販売していた。
平成13年 5月7日、父が脳出血で倒れる。父が倒れて家中てんてこまい。父と40年余り一緒に仕事をしてきたが、残念ながらできなくなってしまった。結局半年入院したが、半身不随になり施設に入ることになった。その後施設に6年間お世話になった。
平成20年 父が死亡。88歳だった。身近な相談相手を失い途方に暮れる。父であり、師匠であった父にいろんなことを教わった。仕事面、人生の生き方など・・・。本当にありがとう。
平成22年 所沢よりある女性が訪ねてきた。私に「竹のことを教えてもらいたい。」と。私は、女の子だし最初は断ったが、何度も訪ねてきてくれる。そのうちに涼台を教えてもらいたい、と言ってきたので、それなら作るときに見に来るといい、見学させた。好きなくらいだから覚えも早く身につくようになっていき、それからいろいろ手伝いをしてもらった。
平成24年 妻を病気で亡くす。62歳だった。私にとっては最大の悲劇で、これからどう生きていったらいいのか・・・。これまでの仕事を辞めようと思った。しかし、多くの人たちに助言をいただき、辞めぬよう励ましていただいた。
平成25年 今度は、先の女性の夫が私の仕事を手伝うようになり、所沢から日高市横手に引っ越してきた。
平成26年 この夫婦が、新井竹芸を伝承することを期待する。
平成27年新井竹芸創業80周年を記念し、長年の夢でもあった、後世に伝統技術を残すための「奥武蔵竹工芸資料館」を建設することを夢見た。

かごやの使命

父(馬太郎)は昭和の時代を、竹職人として生きてきた。かごがなければ日常生活がなりたたないといわれた時代、まさにかごは生活必需品であった。そんな時代にあって、父は地域に根ざした。かご職人として、注文により作り続けてきた。

二代目(正一)息子。
ところが昭和30年代になると、プラスチックなどの工業製品が出現し生活様式が急変して、この地方にも、せっかく技術を覚えた職人たちが次々と廃業を余儀なくされ、転業していった。そんな中自分も果たしてこれから先、竹で生きていけるかという選択におわれるなかで、私は残された者の使命を痛感した。自分がしなければこの地方から竹の灯が消えていってしまう、こういう時代だからこそ竹の仕事を続けなければならないのではないか・・・。

それから昭和50年代になり、ざる、かごを使わなくれも生活していける時代がきてしまった。そこで父と相談し、竹の分野になにかないかと考えたすえ、「小型開運くまで」を開発した。このくまでなら、「1年間家庭を守ってくれたくまでを神社に納め、また新しい年には買う」ということでビジネスにつながる商品として今でも新井竹芸の主力商品である。

その他にも竹炭の開発、涼み台、幣束の串当で、その時代に合った商品の開発に力を入れ、これから先竹の代用品が多くなる時代に、竹の魅力を出した商品に力を入れたい。